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寺田千恵選手(上)散らかったはずれ舟券をゴミ箱に片づけていた少女時代

寺田千恵選手

 1989年のデビュー以来、トップレーサーとして女子のみならずボートレース界全体を牽引してきたのが「てらっち」の愛称でファンに親しまれている寺田千恵選手。そこでご自身の過去・現在・未来について語ってもらった。


  ◇  ◇  ◇


■父に連れられ若松ボートへ


 子どもの頃、若松ボートレース場(北九州市)の近くに住んでいました。当時の若松は造船の町で造船所で働いている人はボートレースをやる人が多かったんですよ。母と再婚した父親も造船の仕事をやっていてボートレースが好きでした。


 ボートレース場には小学校3年生の頃から連れていってもらっていました。そこで私が何をやっていたかというと、おじさんたちがばらまくはずれ舟券を集めてゴミ箱に捨てていたんですよ。すると、それを見ていた屋台のおばちゃんが「いい子だね」ってほめてくれた。それがうれしくてボートレース場に行くともっぱらはずれ舟券集めをしていました。当時はそういうイメージしかなくてボート場には行っていましたけど、レースを見た記憶は全くありませんね。


 それで私が高校を卒業する時、体が小さかったのと性格的に負けん気が強いところもあったので「おまえはボートレーサーに向いている。やってみないか」と父親に勧められたんですよ。その時やりたい仕事があるわけでもなく、体を動かす仕事だったらいいかなと思って試験を受けました。それがボートレーサーになったきっかけですね。


■苦しかった本栖研修所時代。辞めなかったのは同期からの相談


 試験は2回目に受かって山梨県にあった本栖研修所に入りました。同期はたしか約60人いてそのうち女子は20人くらいだったと思いますが、そこでの1年間は言葉では言い表せないくらい厳しかったですね。


 最初は体力づくりということで腕立て伏せをやらされたんですけど回数じゃなくて2時間ぐらいやる。もうこれいつ終わるのって泣きたくなるような気持ちでした。どうやったらサボれるか、そればかり考えていましたね。そして、やっと腕立て伏せが終わると今度は腹筋をお尻の皮がむけるくらい延々とやらされるんですよ。なので入ってすぐ「ウチに帰りたいなあ。ここは私のいるところじゃないわ」って思っていました。


 ところがある時、仲良くなった同期の1つ下の女の子に「ちーちゃん、私もう家に帰りたい。どうしたらいい?」って相談されました。ホントは「私も同じ気持ちよ」って言いたかったけど、年下の子にそんなふうに言われたら何となく止めなくちゃいけないような気がするじゃないですか。それで「辞めるのはいつでもできる。もう少し頑張ってみようよ」って言っちゃったんですよ。でも、そんなことを言ったら自分が辞めるわけにはいかない。それで私もずるずる1年間卒業までいて、気がついたらレーサーになっていたという感じですね。もし、彼女に相談されなかったら途中で挫折して、今とは全く違う別の人生を歩んでいたかもしれないですね。 =つづく


(聞き手=清水一利)