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ツヨカワ女子レーサー直撃 小芦るり華さん 前編 「ボーッと休んでいたんじゃない、今に見てろよって」

©boatrace

高校2年で合格。ダッシュ力が抜群ゆえに大失敗もあったが……

 ボートレースは強くてかわいい「ツヨカワ女子レーサー」が大人気。今回は佐賀支部、118期の小芦るり華さん。スタート力が抜群と評価が高い。デビュー直後の苦い経験をバネに、クイーンズクライマックス出場の12人をめざしてハンドル、レバーを握る。


 おあし・るりか。名字も珍しいが、名前はキラキラネーム、まるでアイドルのようだ。

「名前をつけたのは母親です。子供の名前はひらがなと漢字1文字にしたいと思っていたのでこうなったそうです。姉は由来があるみたいですけど、私の場合は『るりか』というのを気に入ってつけたみたいです。目立つので一度で覚えてもらえるのは得してますね」

 小学校から中学までの6年間はバレーボールに打ち込んだ。将来、ボートレーサーになりたいと思ったのは中学の時に若松ボートを見てから。

「バレーボールを続けてきたので、高校では個人競技を選ぼうと思いました。でも、高校から始めて成績を残すのは難しい。やるならあまり人がやっていない個人競技のフェンシング、クレー射撃、長刀なんかがいいかなと思って、縁があったフェンシングをやりました」

 運動はもともと得意だった。フェンシングの実力はトップレベル。2年時の全国総体では個人ベスト16、団体では九州大会で優勝するなど輝かしい成績を残した。

 高校を卒業してからボートレーサー訓練所を受けることも考えたが、スポーツ推薦をもらえたこともあって、高校2年で受験して見事、合格。

「本当は休学にしたかったんです。それで校長先生に相談したら『ウチは休学はダメ、退学してほしい。退学なら復学もできる』と言われた。でも、復学しても年下の子と制服を着て一緒にやり直すのかと考えたら憂鬱になった。退学してボートレーサーになる道をスッパリ選びました。あれで覚悟ができた」

 訓練所生活は伝え聞いているほどつらくはなかったという。

「フェンシングの練習の方がもっと厳しかったですからね。休みは元日だけ。朝練から始まって夜は午前0時近くまで家に帰れなかった。体力的な過酷さは部活の方が上です。ただ1年間缶詰め状態で親に会えないのは寂しくてつらかった。ホームシックになりました」

 

©boatrace

それをバネに、勝つ戦略練り直し

 地元の唐津で2016年5月にデビュー。スタートが得意な小芦はいきなり試練に襲われた。9月の住之江ボート、10月の児島ボートで2回の計3回のフライングで180日間のフライング休みと6カ月の斡旋停止で1年間レースに出られなくなった。

「この間は地元の飲食店でアルバイトをやっていました。ボートレーサーになったのになぜ休んでいるのか。これまでの人生で一番苦しい時を過ごしました。今の1年なら割り切って過ごすことができるけど、選手になって夢や希望に満ちあふれている時です。走りたいのに走れないのは本当にきつかった。精神はズタボロ。どん底まで落ちました」

 しかし、子供の頃からスポーツで鍛えた不屈の精神力を支えに、自分を見つめ直したという。

「それまでは漠然とした大きなビジョンでしかレーサー生活を考えたことがありませんでした。でも休んでいる間に、復帰した時にどの時期までにどのランクにいたいとか、3年目は何点くらいの得点率にするとか具体的に考えるようになった。どう頑張っていいかわからないまま、大失敗していた自分にも気がつくことができました。出たてだから復帰した時は同期との差も大きいだろうけど、ボーッとして休んでいたんじゃないところも見せたいと思った。今に見てろよって」

 朝起きると、全身に蕁麻疹ができていた時もあったという。つらい1年を経て、小芦は17年に復帰を果たす。 (峯田淳)

 =つづく